「二度読まない本は読む価値のない本だ」というのは誰の言葉だったっけ。



まあ、誰の言葉でもいいんだけど。大切なのは中身だ。

今よりも本を読んでいたころは分かっていなかったのだけど、今ではその言葉の意味が少しは分かるようになりました。


それは結局のところ、本を読む中で自分がその本の内容を取り込もうとしたり、逆に本の世界に自分が取り込まれたりするには一度読むだけじゃ足りないということで。
逆にそのように読まない本というのはあまり読む価値がないんだと。


そういう観点で読みたい本を探しているのだけど、こういう風に考えましたか、と著者から教え諭されたような気持ちになる本というのはなかなか出会えない。






村上龍の短編集「空港にて」は、薄くて読みやすいと思って手に取ったものの、意外なところでそういう問いを突き付けられた本でした。

8つの「○○にて」というタイトルの非常に短い小説を集めた本で、全てそれぞれ一回の合コンとかカラオケの間とか空港で人を待ってる間といった、高度に凝縮された時間の中で思考が展開する形式で、閉ざされた世界が広がっています。
その中で共通して書かれているのは「閉塞した現状」です。

経済的にどんどん発展していくという希望がなくなり、努力すれば報われるという希望すらも怪しくなってきている、バブル後15年ぐらいの日本の姿です。

その中の一つ「公園にて」で、近所の母親たちの噂話やグループを気にしながら生きていくのはまさにその濃縮された構図でしょう。

しかし、共通して語られる希望があります。
それは海外への脱出です。



短編の4つは旅行関連の雑誌に寄稿されたものだから、という事情もあるんですが。


日本が閉塞しているのなら、海外に飛んで行けばよい。
海外で必ず成功するわけではないし、それ自体非常に難しいからこそ、そこは希望であり続けるのでしょう。


ただ、その希望を完全に肯定できてしまう現状というのは、逆説的に日本の閉塞しきった状況を裏付けるものとなってもいます。

それはすなわち、閉塞を打破できる選択がないのなら、必然的に閉塞感の中で生きなければならないということです。



その中で生きるにはどうしたらいいか?という問いかけは自然に出てきますが、非常に重いものです。





その答えはきっと分かることはないのかもしれないけれど、自分が本当に好きなことを見つけることはその一つなんじゃないかと思います。

日曜の午後に見る気もしないゴルフ中継を見ながらビールを飲むのも、仕事の空いた時間にひたすら煙草をくゆらせてるのも、ストレス解消にはなるけどそういうことではきっと閉塞感からは逃げ出せない。


本当に好きなことって、別にサイモン・ラトルの来日公演とかドガの展覧会だけじゃなくて、美味しいお酒とおつまみでも構わないだろうと思います。楽しみにして飲むお酒は、日曜のビールとも、仕事の合間の煙草ともきっと違う。

ちょっとうまく表現できないけれど、それは自分の欲望を肯定しているかどうかという違いのような気がします。
閉塞感から逃げ出すではなく、閉塞感の中にいる自分の欲望も肯定すれば、きっと状況を受け容れられた上で一番楽しくしていられるのかなぁと。



そんなことを「空港にて」から教えられたような気がします。

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