走る人たちの中にもいろいろ適性があって、マラソンに夢中になる人もいれば110mハードルに青春を燃やす人もいる。
同じように文章の書き方にも長いものを書くべき人と、短いものが向いている人がいるようで、震災を機にツイッターを始めてもう少しで一年になるが、そろそろ自分の文章に対する適正をもういちど考えてみたい。
そもそも短い言葉で情報を伝えることほど難しいことはない。常に誤解される危険もはらんでいる。
このことについて言語表現の歴史をさかのぼってみると、もともとは詩、演劇、小説といったヒエラルキーがあったようである。
これはそのまま言葉の数が少ない順に並べたのと変わらないが、よりエッセンシャルで濃度の高い表現を、ヒエラルキーを降りるごとに分かりやすい形に書き下して流布している、というものの見方もできる。
現在では逆ですね。
短くなることによって流布している、というのはある種自然なことでしょう。だから詩とは本質的に違う、と断罪するのは実はちょっと違うような気がしていて、今でもネタクラスタが凝集されたスペースの中にネタを放り込んでいる。その営みはかつて詩人が占めていたそれに近いのでは。
話は変わるけど、質と量にかんしてはこんな話がある。
これは恐らく、何か一つでいいから突出したものを作るといったoutputかつ創造的な面を持った営みに対していえることで、例えばinputであったり総合評価だったりすると話はまた違ってくる。
文章を書くことについてもこの特徴は当てはまるのではないか・・・という考え方より、何か一つでいいから誰かしらの心に引っ掛かることを記録に残せたら、という考え方のもと、この量の説を採りたい。
ということで、だいたい2000字以下を目安に毎週何かしら書いていくことを課したいと思います。
なるべく、もうちょっとふざけた感じで・・・。
同じように文章の書き方にも長いものを書くべき人と、短いものが向いている人がいるようで、震災を機にツイッターを始めてもう少しで一年になるが、そろそろ自分の文章に対する適正をもういちど考えてみたい。
そもそも短い言葉で情報を伝えることほど難しいことはない。常に誤解される危険もはらんでいる。
このことについて言語表現の歴史をさかのぼってみると、もともとは詩、演劇、小説といったヒエラルキーがあったようである。
これはそのまま言葉の数が少ない順に並べたのと変わらないが、よりエッセンシャルで濃度の高い表現を、ヒエラルキーを降りるごとに分かりやすい形に書き下して流布している、というものの見方もできる。
現在では逆ですね。
短くなることによって流布している、というのはある種自然なことでしょう。だから詩とは本質的に違う、と断罪するのは実はちょっと違うような気がしていて、今でもネタクラスタが凝集されたスペースの中にネタを放り込んでいる。その営みはかつて詩人が占めていたそれに近いのでは。
話は変わるけど、質と量にかんしてはこんな話がある。
Art & Fear という芸術家向けの本の中に,こんなエピソードがある ― ある陶芸クラスでのこと,最初の授業において,教師は生徒をふたつのグループに分けた。一方のグループは作品の「量」によって評価を行うとし,もう一方のグループは作品の「質」によって評価を行うとした。
これはどういうことかというと,「量」グループの生徒たちは,提出した作品の量のみによって評価が下される。作品の総重量が50ポンドに達していたらA評価,40ポンド台ならB評価,というように。それに対して「質」グループの生徒たちは,たったひとつの最高の作品を提出すればいい。その作品の出来に対して評価が下される。
すべての授業が終わり,さて評価は,となったとき,少し奇妙な事実が判明した。提出された作品のうち,最も高い質を持つものは,すべて「量」グループから提出されたものだったのだ。
これは恐らく、何か一つでいいから突出したものを作るといったoutputかつ創造的な面を持った営みに対していえることで、例えばinputであったり総合評価だったりすると話はまた違ってくる。
文章を書くことについてもこの特徴は当てはまるのではないか・・・という考え方より、何か一つでいいから誰かしらの心に引っ掛かることを記録に残せたら、という考え方のもと、この量の説を採りたい。
ということで、だいたい2000字以下を目安に毎週何かしら書いていくことを課したいと思います。
なるべく、もうちょっとふざけた感じで・・・。
コメント